2013年1月2日、船は韓国の仁川港を出港、1月4日同じ韓国の蔚山港(ウルサン)に入港し、沖の錨地に投錨する。ウルサンは日本海に面し釜山の北70kmに位置する、韓国の巨大財閥である現代(ヒュンダイ)グループの企業城下町である。市街地の周辺には自動車工場、巨大な造船所、石油コンビナート等が立ち並ぶ。
自分にとってウルサンは、韓国の港の中で一番なじみ深い港である。何度入港したか数えきれないほどの回数だ。若い時分に乗っていた船は、日本の港(千葉、姫路、名古屋、徳山港等)を出港し、沖縄の金武湾にある製油所で重油を積み、その後ウルサンでそれを揚荷した後、同じ桟橋で種類の違う重油を積み、日本の港で揚荷するという三角形の航海パターンを数年間繰り返したことがある。ウルサンに入港の都度上陸していた。苦い思い出もあったが、青春時代の楽しい思い出が詰まっている・・・。韓国語を一生懸命勉強したものだった・・・♪♪?
1月12日、パイロット(水先案内人)の操船によりウルサンの南にある、温山(オンサン)というところにある桟橋に着桟する。その場所は以前、小さな湾でその中央には小島があった。島は観光名所でポジャンマチャ(韓国の屋台)が立ち並び、遊覧船で沢山の観光客が訪れていた。桟橋の近くにあるその小島は船からよく見え、観光客が酔って踊っていた光景を思い出す。しかし現在、その小島の周辺は埋め立てられて工場の敷地の一部になり、昔の面影はほとんどない。一帯には製油所や工場が立ち並んでいる。
2001年のニューヨークでのテロ事件を契機に、10年ぐらい前にISPSというテロや海賊対策等のための国際条約ができた。そのため製油所や船舶への出入り厳しく制限されるようになった。その昔桟橋を歩いて上陸することができたが、今では韓国のほとんどの桟橋でそれが禁止されている。上陸は通船によらなければならなくなり、上陸がままならなくなった。しかし今回船が着けている桟橋は例外で、一般道に面しているため、歩いて直接上陸できるのである。しめた!!今日は運動がてら上陸して久しぶりに街を散策してみようと思う。桟橋のゲートでタクシーを呼びウルサン市街へ向かう。タクシーは新しく綺麗で清潔だ。30年ほど前は、タクシーの料金は、運転手と交渉しなければならず、ふっかけられることも度々だった。車は汚れ、ほとんどが乗り合いタクシーで、知らない客と乗り合わさなければならないこともあった。気が短い運転手が多く、ある運転手の場合、他の車に追い越されると怒ってその車を追い越し返すこともあった。道路は舗装してあるが少しでこぼこで、気をつけないと穴が開いていることもあった。時代も変わったものだ。
以前よく行っていた町の商店街のかなり手前に、ロッテデパートやホテル等の繁華街ができきており、そこでタクシーを降りることにする。ロッテデパートの横のマルチプラザの屋上に観覧車(LOTTE WHEEL)があったので、景色を写真に撮るため乗ってみることにする。愛想のいい女性係員の案内で一番良さそうなゴンドラに乗せてもらう。しかしゴンドラの窓は、傷が多くついており写真が綺麗に撮れない。観覧車から見るウルサン市内は沢山の高層ビルが立ち並び、大変貌を遂げていた。30年前は、せいぜい10階建てのビルが高い方だったが、今は高さ100m以上あるような高層ビルが沢山ある。
観覧車を降り、ゴンドラから見えていた市場のような場所の方向に向かって歩いてみる。市場のようなところは、やはり蔚山中央市場という名の巨大なマーケットであった。市場の中には沢山の野菜や、果物、キムチ等が、所狭しと並ぶ。市場を抜けサムスンの電気店があったので覗いてみる、パソコン、オーディオ、洗濯機、冷蔵庫などすべてがサムスン製だ。日本の大型電気店とは異なり店の規模が小さく品数がそれほど多くない。もちろん日本のメーカーの品物は一切置いていない。
蔚山川の向こうの、町の中に公園のような小高い丘があったので行ってみることにする。橋を渡り住宅地の中を歩く。町並を見ると、以前よく歩いた記憶がある。小高い丘の前にくる。それは蔚山城跡であった。以前来おとずれたことがあるが、忘れていた。蔚山城に登ってみる。
その昔、豊臣秀吉が朝鮮に出兵した文禄・慶長の役のとき、蔚山城のあった小高い丘は、島山と呼ばれウルサン湾の一番奥にあり、船が目前まで入ってくることが出来た。拠点確保のため倭城の築城を急いでいた日本軍は、加藤清正の縄張りにより、浅野幸長、毛利秀元の軍勢を中心にこの島山への築城を急いだ。明・朝鮮軍はこれを阻止し、さらに加藤清正を捕らえるため、明将楊鎬、麻貴らに率いられた明軍および、都元帥権慄率いる朝鮮軍、合わせて約56,900(うち朝鮮軍12,500人)の兵を建設中の蔚山倭城に差し向けた。一方寡兵の日本軍は、加藤清正指揮のもと10000人の兵力で蔚山城に立て籠もった。明・朝鮮連合軍は、連日攻城戦を展開したが、日本軍は多数の犠牲を払いながらも必死の攻防により、明・朝鮮連合軍をその都度退けた。10日の篭城の後、一旦城を抜け出ていた毛利秀元、他黒田長政、長曾我部元親(水軍)等の13000人の援軍が蔚山城の南に到着した。援軍と篭城兵の猛攻撃により明・朝鮮連合軍は大敗北をきっした。これが1597年の年末から1598年の始めにかけて起こった蔚山城の戦いである。
蔚山城跡は、本丸の跡である。ところどころに石垣が残っているが、面影はあまりない。蔚山城跡のとなりにも小高い丘があり、周辺は韓国語でいう歴史探訪路になっている。登る途中に船入跡(Pire Site)という場所があった。戦いがあった当時は、ここまで船が入ることができていたのであろう。今では付近一面住宅地に囲まれている。丘の上からは川が目の前に見え、景色がよい。この川を日本水軍が押し寄せてきたのだろう。頂上はかなり広く、蔚山城の戦いなどの石碑がある。韓国の人の多くは、日本人を好きではないが、こんな侵略戦争の歴史があれば、逆の立場からみれば納得できる。日本は鎌倉時代に、文永・弘安の役で元・高麗軍に攻められているのでお互いさまか・・・。昔は食うか食われるかの世界だったのだ。
丘を反対側に降りていき、昔よく歩いた見覚えのある道をあるく。街の写真を撮っていると中年の男性から話しかけられる。「オディロワソヨ・どこからきたのですか?」「ナヌンソノンイムニダ・イルボンエソワスムニダ・私は船員です。日本から来ました。」・・・。
道なりに歩いて行くと、よく来ていた商店街があった。当時、道の舗装が完全ではなく、道は荒れていた今は、綺麗なタイル張りの道沿いに屋根が造られアーケードになっている。以前は、道の中央に、屋台が並びおでんやトッツポギなど食べ物を売っていた。今は、屋台は全て無くなっている。そういえば、以前は町のあちらこちらにポジャンマチャ(屋台)あり、時々立ち寄っては海鮮料理を食べマッカリを飲んでいた・・・。うどん、ククス(そーめん)、キンパ(巻きずし)など日本食(韓国風)もあった。今ではその屋台を一つも見るころができな。衛生上の問題で禁止になったのだろうか・・・。
アーケードの中に5階建てのデパートがあった。「ジュリウォン・ベクファジョム(百貨店)」という名前で30年前当時、蔚山では一番大きなデパートだった。今では、「ニューコア・アルレ」という名前に変わっている。店はカラフルで華やかになり、見違えるようだ。しかし昔面影はあり、懐かしさがこみ上げてくる。今日は休日だからだろうかアーケードの中は人でいっぱいだ。アーケードの日本語の看板を掲げた鮨屋で握り飯を食べる。味はやはり韓国風である。充分に歩いたし運動したので、船に戻ろう。タクシーを探す。アーケードのすぐそばには高さ200メートル近くもあるような高層ビルを見上げる。
船は、1月13日無事に積荷を終え、日本の六連島(下関港)に向け出港する。
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